生活の詩のようであり、社会への書簡のようなもの。

生あたたかい血の通ったcontributionを、貴方と、アフリカと、そしてわたし自身に優しく美しく届けれるようになりたい。

生物学的性別と、社会学的性別と。ごく個人的な悩みについて。

ぼくは本来「なまえ」が生まれる目的は「そのなまえが消失する」ことなんじゃないか、と思っている。

たとえば「LGBT」ということばは、genderにおける偏りの一部のマイノリティを、メジャリティのひとたちが認知することに役立つ。これはとても大切なことだと思うし、これこそ「なまえ」「ことば」の持つ魔力だと思う。

だけど、究極的なグラデーションのせかいにおいては、その「なまえ」さえ必要ないはず。その属性の偏りが均質化すれば、「なまえ」は必要なくなる。"当たり前"になれば、その「なまえ」は「未知の既知化」という役割をおえるわけだ。

ほんとうはgenderも「LGBT」くらいのなまえでカテゴライズできるほど一様ではなくて、ひとりひとりが、ごくごく個人的なgenderの在り方を生まれながらに持っているとぼくは感じている。

たとえばぼくはgenderで言えば、ニュートラルで在りたいと思っている。または「両性」と表現するのが正しいか。

でも、生物学的な性別=sexとして自分は紛れもなく「男性」であって、それらがなんだかぼくのなかで乖離を起こすことがあって、ひととひととのシンプルな関係性において、なんだか邪魔だなぁって思ってしまうときがある。生きづらさを感じ続けている。

正直に告白すると、女性に優しくするのが、ときどきとても怖い。いや、しょっちゅうかもしれないくらい。

そしてすこし最近発見したことは、すでに結婚しているひととなら、そのひとの生物学的な性別が女性であったとしても、あまりそういうこわさを感じない。もっとシンプルに、ひと対ひとの関係性として、そのひとのことを大切に思うことができるような感覚を発見した。

打算もなく、目的もなく、純粋にひととして好きという気持ちがあり、大切にしたい、と感じれることであって、好きなひとに貢献できたのであれば、自分自身がとても嬉しいわけであって。

逆に「打算があるんじゃないか」って思われることに怖がる必要なんて、ないわけであって。

そんな、ひととひととの関係性において、生物学的な性別はぼくにとって全く重要ではないことであって、そんなのに囚われたくない、って、いつも、足掻いてる。

だけど、どうしてもふと、優しくすることがこわくなることがあるんだよね。

何かを贈ることがこわくなることがあるんだよね。

そんなさみしいこと、なくしていきたいなぁ。