生活の詩のようであり、社会への書簡のようなもの。

生あたたかい血の通ったcontributionを、貴方と、アフリカと、そしてわたし自身に優しく美しく届けれるようになりたい。

『読む』より、『読まない』をぎゅっと大切にしたい。

冊数はあまり多くはないのですが、本を読むのが好きです。

ですが、読みたい本は人間まるまるひとり分の人生でも足りなくなるくらいには、とめどなく溢れます。(そして不思議なことに読めば読むほど、積み重なる本は増えていく!)

世界は主観で構築され「時間」こそが貴方の「命」とほぼ等しいものであると言うならば、本を読むということもまた、紙に載ったインクを目視することにさほど多くはない貴方の命を注ぎ込むということです。

ですが溢れる主観とその集合として立ち上る客観の幻想の中では、喉から手の出る情報はそこかしこに、拾いきれない物量で転がっています。

だからむしろ、いかに選ばないか、が「貴方」を構築するのではないかと感じます。

人生とは実は積み上げていくものではなく、積みへらしていくものなのかもしれません。

積み木みたいに、積み重ねながら何かを形づくっていくのではなく、彫刻みたいに、大きな大きな石の塊から「貴方」の本当をえぐり取っていく行為の方が、この人生と何となく近い感覚があります。

一時のアルベルト・ジャコメッティの彫刻のように、目よりも確かに現実を視ようとしたときに最後に残るものは、ものすごく細くて、ものすごく小さくて、ものすごく重い、ブラックホール特異点のようなただひたすらの存在感みたいな何かであるような。

そのコンテキストで、本も「読む」じゃなくて実は「読まない」が自分という総体を形成していくのかもなぁ、と、ふと考えていました。

流行っている本や、売れている本を手に取るのが億劫になってしまうのは、「みんな」が読んでいる本を読めば読むほどに、「わたし」が「みんな」に漸近していくということに恐怖を感じてしまうからなのかもしれません。

わたしの惹かれる肌理だけを、丁寧に優しく選びとってあげたいなと思う。

むしろもう「引き寄せる/弾き飛ばす」くらいの、魔法がかかっているような感覚にたどり着きたい。